おおた区報WEB版 平成28年12月1日号〔トップページ・特集〕

更新日:2016年12月1日

特集

区制70周年特別企画[1]
あのころの大田区

 昭和22(1947)年、それまでの東京35区が整理統合され東京23区となりました。これによって大森区と蒲田区が合併し、同年3月15日に大田区が誕生しました。
 以後、著しい発展を遂げた大田区は、平成29(2017)年、区制70周年を迎えます。これを記念し、わたしたちのまちの成り立ちを今回と新年号の2回に分けて特集します。
 前編となる今回は、大田区となる以前の地域の様子を貴重な図版・写真とともにご紹介します。

地名に見る面影

 明治時代に荏原郡の一部だった頃の古地図です。今も学校名などに、古い地名が残っていることがわかります。明治末期~大正初年には人口はまだ6万人ほどでした。

『東京府郡区全図』(現大田区域分)
 明治29(1896)年 東京府編 清華堂出版

陸蒸気(おかじょうき)の走るまち

大森駅東口(『入新井町誌』)。モースは横浜から東京へ向かっていた車中、この駅付近で大森貝塚を発見したとされています。 明治5(1872)年9月、新橋・横浜間を結ぶ日本で最初の鉄道が開通。同9年、大森駅が鉄道技師用停車場として開設されました。蒲田梅林、池上本門寺、新田神社への参詣客が多いことも理由の一つでした。地域では、文明開化の象徴、陸蒸気が早くから見られたことになります。

工業のあけぼの

明治43(1910)年、関東経木真田競技大会(大森八景園) 江戸時代から始まった麦わら細工は、大田の工業の源ともいえます。明治時代には、裂いた麦わらを平織り(真田織り)した組みひもを作り、盛んに海外への輸出も行いました。写真では、幼さが残る女工たちを見ることができます。

羽田と飛行機

大正5年10月5日、玉井式2号機の初飛行
(『大田区の文化財 第19集 写真でみる郷土のうつりかわり(風景編)』) 大正5(1916)年、三重県出身の玉井清太郎は多摩川河口で自作の飛行機の初飛行に成功。翌年、玉井らによって羽田町鈴木新田(現在の羽田空港一丁目)に日本飛行学校が開設されました。弟の藤一郎は羽田飛行機研究所を設立し、清太郎と共に日本のライト兄弟と呼ばれています。

撮影所がやって来た!

 大正9(1920)年、現在の蒲田・アロマスクエアの場所に松竹蒲田撮影所が置かれると、ひなびていた蒲田駅前は映画人の登場によって「モダン蒲田」として一躍脚光を浴びました。昭和11(1936)年、大船に移転しています。

(左)松竹キネマ蒲田撮影所(『蒲田画報』第19号新年号・大正14年)/(右)蒲田映画の黄金時代を語る雑誌『蒲田』

進む宅地化

洗足台分譲住宅外観
(『同潤會會報』第77号・昭和12年、東京都公文書館蔵) 関東大震災後、新しい住宅開発が急ピッチで進みます。財団法人「同潤会」は、昭和6(1931)年に、洗足台分譲住宅(場所は上池台)を売り出しました。2年後には雪ヶ谷住宅も分譲。電気、ガス、水道の完備が自慢でした。

まちがやって来た 
 大正・昭和 大田区のまちづくり 

まちがやって来た 
 大正・昭和 大田区のまちづくり  今回使用した図版・写真は郷土博物館が発行する図録に掲載されています。

 1,000円。郷土博物館、区政情報コーナー(区役所本庁舎2階)、大森 海苔のふるさと館で販売。

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