第4回 初代館長、西岡秀雄 学芸員コラム

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更新日:2023年1月15日

考古青年の模索(前編)

 このコラムは、企画展「田園調布の遺跡発見!~初代館長、西岡秀雄の足跡~」の内容を、さらに掘り下げたものです。大田区立郷土博物館の初代館長を務めた考古学者・地理学者、西岡秀雄(1913~2011)が、10代後半~20代、考古学・人類学を志し、地元、田園調布周辺の遺跡の調査研究と成果の発信に奔走しつつ、研究者へと成長していく足跡をたどります。

考古青年たちの活動

中学は出たけれど
 人類学・考古学の魅力に目覚め、中学5年の昭和5(1930)年12月には『校友会雑誌』に論文「人類の発祥と移動」を寄せた西岡でしたが、翌年3月には旧制高等学校の受験がひかえていました。父俊雄は息子が母校東北帝国大学に入って工学の道に進むことを望んでいたので、第一志望は仙台の第二高等学校(昭和6年度の試験は3月17~19日)と思われますが、秀雄はエンジニアへの興味を既に失い、つまらない受験勉強はそっちのけで発掘に明け暮れていました。後年の西岡の対談や講演(1993「田園調布にそだつ」『史誌』37号 大田区史編さん室/1999「あすを考えるミュージアム」『大田区立郷土博物館紀要』第10号)では、この頃の父子の緊迫したやり取りが回顧されています。
 一人息子が就職先もない人類学・考古学に没頭するのを、父親が快く思わないことは秀雄も承知しており、俊雄が出勤で不在の折を見計らって、出土遺物の整理作業をしていました。ところがある日、運悪く午後3時頃に俊雄が帰宅し、部屋一面に敷いた新聞紙の上に、横穴墓から出土した人骨を並べているところを見つかってしまいます。「何やってるんだ!。」俊雄は激怒しました。
 「時代は進むときなんだぞ。」俊雄は言います。「飛行機やラジオ(電気や自動車や飛行機 とも)の勉強するんならわかる。それを三千年も五千年もうしろに戻る学問をするやつがあるか。」さんざんに叱責されましたが、情熱はかえって強まるばかりでした。結局秀雄は受験に合格できず、浪人となります。


「西岡22号墳石室平面図」昭和8(1933)年3月 西岡作図 前年4月に松野らと調査したもの


西岡22号墳写真 昭和12(1937)年6月 西岡たちの調査から数年たち、石室壁材の切石の崩壊が進んでいる

 そんな状況の中、西岡は大田区田園調布から世田谷区野毛一帯の遺跡の調査を、いよいよ本格化させます。田園調布の同年代の友人、松野正徳、勝賀瀬正、安達直らも「アシスタント」として加わりました。中でも松野正徳は熱心で、西岡が中学を出た直後の昭和6(1931)年4月8日には、共に道路工事で露出した横穴式石室(現、西岡22号墳)の発掘調査を行ったほか、独自に発掘や遺物の採集を行うこともありました。

  田園調布から野毛にかけて広がる古墳群の、分布調査を開始したのもこの頃です。調査に用いたとみられる分布図「多摩川上沼部古墳帯北部全図」は、二つ折りにして裏から光を当てると、街路を手掛かりに古墳をプロットでき、光を消すと、古墳だけを見て、分布の濃淡や群としてのまとまり(群構成)を把握できるという、かつての科学少年の発想力を垣間見せるものです。
 いつしか、少年期以来の秀雄の遊び場だった父俊雄の「工作室」には、工具にまじって人骨や遺物がひしめくようになりました。

発掘!下沼部汐見台横穴墓群
 浪人生活も間もなく1年になる昭和7(1932)年2月、西岡たち考古青年の活動が、地域の注目を浴びる出来事が起こります。下沼部汐見台(しもぬまべしおみだい)横穴墓群の調査です。ここではその経緯を、西岡による調査報告「汐見台横穴群に就て」(1933『丘の上』第10号 横浜考古学研究会)をもとに再現してみましょう。
 2月10日、現在の田園調布三丁目43・47番付近で、目黒蒲田電鉄株式会社が、宅地開発のため斜面を切り崩して道路を造っていたところ、横穴墓群が発見されます。夕方、下野毛の遺跡(現、世田谷区下野毛遺跡)の調査から帰って事態を知った西岡は、さっそく松野たちアシスタントと現場に急ぎます。既に3基の横穴墓の全てがくずれ、人骨も元の位置をとどめていませんでした。西岡たちはこれらを1~3号墓として、持参したランタンと懐中電灯の明かりを頼りに、できるかぎりの人骨を採集します。既に午後10時を過ぎていましたが、西岡は現場事務所を訪れて監督に掛け合い、次に横穴墓が発見されたら立入禁止にして調査させてくれるよう、約束を取り付けます。現場監督も、作業員が人骨の祟りを恐れ、工事を停止せざるをえない事態に悩んでいたのです。
 2月14日、西岡宅に、新たな横穴墓発見の知らせが入り、西岡たちは、雨の中自転車で調査に向かいます。現場には大勢の見物人が詰めかけていました。
 この4号墓には、入口に、凝灰質砂岩(ぎょうかいしつさがん)の切石(きりいし)を組んで造った門が設けられていました。またロームを掘り残してつくった間仕切り施設があり、その奥に、3体分の人骨が、奥壁に並行して横たわった状態で出土しました。副葬品はみつかりませんでした。


4号墓実測図 昭和7(1932)年2月 西岡作図   (1936「荏原台地に於ける先史及び原史時代の遺跡遺物」『考古学雑誌』26巻5号 所収)


4号墓模型(西岡の実測図をもとに再現)

 西岡の報告には、発掘現場での印象的な場面が伝えられています。ある中学校の歴史の教員が偶然通りがかり、計測を終えて外に運び出された出土人骨を前に、突然次のような解説を始めたのです。

「これはアイヌ人の骨で学問上はコロボックルといいます。そしてこの横穴は彼等が穴居(けっきょ)した跡であり、三体分あるのは父、母、子と親子の遺骨でありまして、年代は神武天皇以前のもので約三千年前といってよろしいでしょう。」

 この発言には、当時の考古学の重要なテーマが、誤った形で凝縮しています。
 最初の一文は、日本列島の先住民をめぐる論争を踏まえたものです。明治から昭和初期の歴史学・人類学では、日本列島に住んでいた先住民が、現代の「日本人」の直接の先祖の流入によって、北へと追いやられたとする考え方が有力でした。明治19(1886)年、「石器時代」(ほぼ「縄文時代」に相当します)の日本列島で貝塚などを営んだ先住民は何者かをめぐり、「コロボックル・アイヌ論争」がおこります。植物学者の白井光太郎(しらいみつたろう)や人類学者の小金井良精(こがねいよしきよ)らは、先住民はアイヌだと主張しますが、人類学者の坪井正五郎(つぼいしょうごろう)は、北海道のアイヌ文化に土器や竪穴住居などの要素が含まれないことなどから、先住民はアイヌではなく、アイヌの伝承に先住民として登場する「コロボックル」という人々だと説きます。大正2(1913)年に坪井が亡くなって、コロボックル説に立つ研究者がいなくなったため、論争は収束しましたが、坪井による遺跡・遺物・再現イメージなど豊富なイラストを交えた概説「コロボックル風俗考」(1895-1896『風俗画報』東陽堂)や、坪井を敬愛する作家、江見水蔭(えみすいいん)による、大田区・品川区一帯のコロボックルたちの群像を描いた考古小説『三千年前』(1917 実業之日本社)などを通じて、先住民コロボックルのイメージは広く一般に浸透していました。この歴史教員は、コロボックル説とアイヌ説を混同していたのです。
 「三千年前」も坪井正五郎によるものです。日本の「石器時代」の年代をめぐる研究は、明治13(1880)年、お雇い外国人の地震学者、ジョン・ミルンが、大森貝塚の造られた年代を今(明治13年現在)から約2640年以前としたのが最初です。これは古地図などをもとに、東京湾が川に運ばれた泥や砂により、大昔から一定の速さで埋まり続けているという前提に立ち、海岸線が遠ざかる速度を算出して、大森貝塚の地点が海に面していた年代を計算したものです。気候変動に伴う海面の変化が明らかになっている今日では、この説は否定されていますが、根拠と方法をはっきり示した、科学的な考え方といえます。ところが坪井の弟子の人類学者、鳥居龍蔵の証言によると、坪井は、日本列島の「石器時代」先住民の存在が、初代の天皇、神武天皇の即位年(『日本書紀』の記述に基づき西暦前660年とされる)よりも古くなるよう配慮して、ミルンの年代をあえて数百年遡らせ、3000年前という年代を提唱したというのです (鳥居龍蔵1939「ジョン・ミルンの大森貝塚年代考察に就て」『武蔵野』26巻1号 武蔵野会)。鳥居は、根拠がないとして坪井に抗議しましたが、先に述べた坪井や江見の一般向け著作の影響もあり、日本の「石器時代」は3000年前、という見方が一般化していました。
 「穴居」も坪井の説に基づくものです。埼玉県吉見町の横穴墓群、吉見百穴(よしみひゃくあな/よしみひゃっけつ)を発掘調査した坪井は、横穴墓を日本の古代国家の神話に登場する先住民、「土蜘蛛(つちぐも)」が住居として使うために掘った穴だと説きました。この説も坪井の死とともに事実上否定され、昭和初期には、横穴墓が古墳の一種であることは通説となっていました。ただし坪井は、横穴が鉄の道具で掘られたことを見抜いており、石器時代の「コロボックル」と、鉄器を使う「土蜘蛛」とを慎重に区別することで、日本列島の先住民の問題が複雑であることを、暗に示そうとしました。しかしその意図は伝わらず、この教員のように、坪井の「穴居」説を、コロボックルが横穴に住んだ説とみる誤解が、後代まで根強く残ります。
 人骨の性別や家族関係は、教員の完全な憶測です。
 このように、歴史教員の発言は、明治時代に始まった近代的学問としての考古学の普及、特に、学界をリードして、成果の一般への発信にも尽力した坪井正五郎の影響を知るうえで興味深いものです。しかし事実誤認や思い込みが激しく、さすがに聞きとがめた西岡が反論したため、二人は激しい論争になりました。
 そこへ古くから地元に住む老人が現れて、語りはじめます。

「おいら子供サあった時よ、此の辺はよくでっけいコンコン様[古狐]が棲(すま)ってただよ、そんでの、通りがかりの旅人ら化かしてよ、喰らい居(お)っただ。このほら(洞)はそのコンコン様の穴でよ この骨さ、コンコン様の喰ひかすなんでげすよ。」

 真顔で話す老人に、見物人一同の笑いの渦が起こり、その場は収まります。近代的な学術の世界に親しむ人々と、民間伝承の世界に生きる人々とが交錯する、当時の田園調布の活気に満ちた一場面を鮮やかに伝えるエピソードです。

 西岡はこの横穴墓群を、所在地の旧地名「東調布町 大字(おおあざ)下沼部(しもぬまべ) 字 汐見台(しおみだい)」から「汐見台横穴群」と名付けます。今日の遺跡名称「下沼部汐見台横穴墓群」の元になるものです。
 さらに各横穴墓の分布を確認して地図に記録し、7m間隔で計30基以上の横穴の分布を想定します。人骨の年齢や性別も分析し、判別可能なものは全て18歳以上の男性との結果を得ます(後に西岡は、子供の人骨も含まれていたことを明らかにします)。さらに、5体分の骨を計測して「骨格指数」を求め、その数値がアイヌ民族の範囲に属さないことも確認しています。西岡は、これらの横穴墓が盗掘されていないにも関わらず、副葬品を全く伴わないことに着目し、「徹底的敗戦」を喫した古墳時代の「戦士」の墓だと結論付けます。
 出土人骨の多くが現存しないため、西岡の分析を再検証することは困難ですが、この調査がなければ、下沼部汐見台横穴墓群の実態が今日に伝わることはなかったといえます。
 しかし、試験約1か月前の「ラスト・ヘビー」(当時の受験用語)の時期にこのような状態で、受験勉強がはかどるはずもなく、翌月の入試にも失敗し、浪人生活は2年目に突入します。西岡18歳の春のことでした。
 

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