第8回 初代館長、西岡秀雄 学芸員コラム

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更新日:2023年11月21日

広がる世界、深まる知識 2

 このコラムは、企画展「田園調布の遺跡発見!~初代館長、西岡秀雄の足跡~」の内容を、さらに掘り下げたものです。大田区立郷土博物館の初代館長を務めた考古学者・地理学者、西岡秀雄(1913~2011)が、10代後半~20代、考古学・人類学を志し、地元、田園調布周辺の遺跡の調査研究と成果の発信に奔走しつつ、研究者へと成長していく足跡をたどります。

西岡人類学研究所、始動! 前編

地域研究の拠点へ
 慶應義塾大学予科2年生のころ、西岡は、これまで「研究室」と称してきた自邸の工作室を「研究所」と改め、「西岡人類学研究所」の看板を掲げます。
 「研究所」の名が歴史上初めて確認できるのは、考古学者、大場磐雄(おおばいわお)の調査ノート『楽石雑筆』の昭和9(1934)年12月16日の記事です。この日大場は、自身が教鞭をとる國學院大學 上代文化研究会の学生2名を率い、田園調布から野毛への「見学遠足」を行いました。朝8時に渋谷を発った一行は、多摩川園駅(現、多摩川駅)で下車し、亀甲山古墳、宝萊山古墳、現、西岡28号墳周辺などを廻ったのち、浅間様古墳の横穴式石室を実測します。大場はかつて、田園調布の住宅地が造られつつある大正15(1926)年、森本六爾(もりもとろくじ)らとともに、田園調布で古墳などを調査したことがありました。
 一行が西岡邸を訪れたのは、午前の巡検が終わった11時半ごろのことです。ここで大場は電話を借りて、友人の岡栄一(医師、川崎市周辺をフィールドとする郷土史研究者)に、のちほど上野毛にある岡邸に立ち寄りたい旨一報し、その後一同で、西岡邸内の「研究所と称する一室」を見学します。
 大場は研究所内の様子を、

 数々の機械類 所せまきまでに立ちならび 工場の如き感あり。

と記しています。機械類の中には西岡が考案した「実測機」、「土器類の直径測定機」、「土器比重測定器」などもありました。なお当時出土人骨研究に関心が高く、解剖学の講義も聴講していた西岡は(第7回コラム参照)、研究所内で手術用の白衣を着用していたため、最初大場は西岡を、慶應の医学部の助手と思ったそうです(後代の座談会での、西岡の回顧)。(注釈1)

 『楽石雑筆』には、一行が見学した考古資料が挙げられています。中でも注目を集めたのは、宝萊山古墳の主体部から出土した、四獣鏡、玉類、紡錘車形碧玉製品(ぼうすいしゃがたへきぎょくせいひん)、鉄製武器類でした。大場は遺物の文様や付着物等を観察し、出土位置や出土状況も聞き取って詳細に書き留めています。他の資料には、現、西岡31号墳出土の石製釧(くしろ)、西岡が作成した世田谷区御嶽山(みたけさん)古墳出土の七鈴鏡の実測図、西岡が麻布区本村町(ほんむらちょう)の貝塚(現、港区本村町貝塚)から採集した縄文土器などがありました。本村町貝塚は、西岡が、同地に住む友人の引っ越しを手伝った際に偶然発見した貝塚で、土器片は、縄文時代前期の諸磯(もろいそ)式土器や、それよりも古い時期の、粘土に繊維を練り込んで焼いた、もろい土器だったといいます。
 昼食後、西岡は一行に加わり、途中、照善寺に寺宝「土器観音」として伝わる人物埴輪、世田谷区狐塚古墳、等々力根横穴墓群などを見学しつつ岡邸まで同行します。この時西岡は、「土器観音」が観音塚古墳から出土したものであろうとの予察を大場に語っています。
 なお「研究所と称する一室」という書きぶりからは、大場の若干の違和感がにじみます。確かに考古学・人類学を志す研究者個人が、大学などの大規模研究機関に拠らず、独自の「研究所」を立ち上げる機運が盛んだったのは、もう10年も前のことでした。これらのうち鳥居龍蔵による「鳥居人類学研究所」、大山柏による「大山人類学研究所」、森本六爾らが主宰する「東京考古学会」は、昭和9年当時、他の追随を許さない研究組織になっていました。したがって鳥居や森本と親交の深い大場が、まだ学生である西岡の自称「研究所」に、奇異の念を抱くのも無理はありません。しかし第6回コラムでご紹介した通り、「西岡人類学研究所」は、田園調布で上沼部貝塚の研究に生涯をかけ、若くして病に倒れた慶應医学部助手の高橋正人(たかはしまさんど)が、やはり10年前の同じ機運の中で立ち上げた「高橋考古人類学研究所」の後を託された組織の可能性があります。しかも「西岡人類学研究所」は、地元田園調布において、考古学研究の拠点としての役割を着実に果たしはじめていました。大場らが見学した宝萊山古墳の遺物は、その象徴的存在といえます。

 宝萊山古墳の発掘は、この4か月前の昭和9(1934)年8月3日に遡ります。この日の夕方、田園調布在住の慶應普通部(中学校に相当)の生徒、細合公一とその友人、三宅俊太郎が宝萊山古墳の後円部付近を通りかかったところ、墳丘の中腹に、夕日を浴びて光るものが見えました。不審に思い光に向かって何度か石を投げてみますが、光は消えも動きもしません。二人は光の正体を確かめようと夢中で後円部の頂上へと駆け上がり、ガラス玉類を発見します。実は宅地造成のために、宝萊山古墳の後円部が、その中央に設けられていた粘土槨(ねんどかく)(木棺全体を覆う、粘土でできた施設)まで削られ、棺内に収められていた宝器類が露出して、日の光を反射していたのです。二人とも考古学の知識は全くありませんでしたが、好奇心を押さえられず、直ちに発掘を開始します。果たしてガラス玉多数、ヒスイ製勾玉4点、青銅鏡1点、鉄刀といった錚々たる遺物が次々と出土し、二人は「少年らしい喜び」とともに「一種の恐怖」に襲われました。


宝萊山古墳後円部遠景 昭和10(1935)年7月14日撮影  細合らの調査から約1年後、北側から撮影したもの。墳頂部のやや明るい色の土層が、露出した粘土槨の断面。


宝萊山古墳主体部遺物出土状況の再現図。西岡が細合少年の知見をもとに作成。

 その後細合少年は西岡のもとを訪れ、「古墳から鏡が出土したがどうすればいいか」と相談を持ちかけます。驚いた西岡は、細合とともに現地に向かいます。最初の発掘から約1か月後の9月9日のことでした。既に後円部北半分が大きく削られ、粘土槨の断面が露出している状態でしたが、2人は直ちに第2回目の発掘調査を実施し、翌9月10日にかけての2日間で粘土槨の南端を確認したほか、紡錘車形碧玉製品(ぼうすいしゃがたへきぎょくせいひん)、複数の鉄刀を新たに発掘しました。西岡は古墳付近にトロッコで運ばれた排土をふるいにかけ、中から多数の玉類を検出しました。
 西岡は研究所でこれらの出土遺物を保管し、翌11日には前日の現場での観察と、細合少年からの聞き書きをもとに、遺物出土状況の再現図を作成します。
 鳥居人類学研究所の鳥居龍蔵も、遺物について細合・三宅両少年に様々な教示を与えました。鳥居は、武蔵野の歴史・考古・民俗全般に関心を持つ市民による「武蔵野会」という同好会も主宰しており、二人の少年はその会誌『武蔵野』に、宝萊山古墳の発掘調査報告を発表することとなります。西岡は彼らの執筆に、終始力を貸したといいます。3か月後の12月20日、調査報告「田園調布宝来山古墳」は完成し、『武蔵野』第22巻第1号(1935年1月刊)に掲載されました。この報告には鉄鏃が2点出土したこと、粘土槨の下方の土に朱が含まれていたことなど、西岡の再現図より後に追加された重要な情報も載せられています。
 『武蔵野』は戦後復刻され、今日も読むことができます。出土資料も一部が戦災で失われましたが、多くが今日に伝わり、西岡・細合らの母校慶應義塾大学と当館とに所蔵されています。あわや宅地開発と共に失われるところだった宝萊山古墳の主体部内の遺物と、その配置配列に関する情報は、二人の中学生と、それを支えた西岡、鳥居により守られたといえます。(注釈2)
 


後代の発掘調査で判明した、宝萊山古墳の墳丘の形状と、主体部の推定位置。


『武蔵野』に掲載された細合・三宅による粘土槨内部の再現図(一部改変)。

 大場もまた2年後の昭和11(1936)年、縄文時代前期の土器に関心を持つ一人の中学生に、西岡人類学研究所を紹介することとなります。この中学生の名を江坂輝彌(えさかてるや)といい、当時、東京近郊各地の遺跡を調査する少年グループのメンバーとして、研究者の間で知られる存在でした。
 自身も諸磯式土器の研究で成果を上げていた大場は、西岡が発見した港区本村町貝塚に一定の注意を向けており、この年の夏、一般向けの考古学・人類学関係誌『ミネルヴァ』第1巻第6・7合併号(1936年8月 翰林書房)誌上の「東京市内の石器時代遺物」の中で、諸磯式や、それよりも古い時期に遡る縄文前期の貝塚の一例として、同貝塚の存在を初めて世に発表します。この記事は大場の談話を同誌編輯部が短くまとめたもので、西岡による発見や遺物保管の経緯などは省略されてしまったのですが、これを読んで関心を持った江坂は、親交のある大場から、同貝塚の出土遺物が西岡人類学研究所に所蔵されているとの教示を得ます。翌年2月、江坂は西岡の研究所を訪ね、本村町貝塚の遺物を実見して西岡から遺跡発見時の状況を詳しく聞き取ります。そしてそれらを手掛かりに同貝塚を新たに発掘調査し、西岡の発見にはじまる一連の研究史と調査成果をまとめて『考古学雑誌』誌上に発表します(江坂輝彌1938「東京市麻布区本村町貝塚調査概報」『考古学雑誌』第28巻第10号)。その後江坂は西岡と同じ慶應義塾大学に進学し、戦後は教授となって縄文時代の研究を牽引します。(注釈3)
 大場と西岡の直接の交流もその後つづいたようで、昭和11(1936)年に、大場が上代文化研究会の学生を連れて西岡人類学研究所を訪れ、研究所の前で講話をしたことがあるとの証言があります(前掲座談会での江坂輝彌の回顧)。國學院大學博物館所蔵の大場磐雄博士写真資料にのこる集合写真は、その時のものである可能性があります。

上代文化研究会集合写真 昭和11(1936)年撮影 國學院大學博物館 提供 前列中央が大場。大場の左隣が西岡、右隣は片倉信光。片倉の右後方、学帽の人物は樋口清之。

「整理表」にドラマあり
 西岡は研究所の所蔵資料に、土器・石器・骨など種類別の通し番号を付け、「整理表」という台帳を作製して管理していました。「整理表」には資料番号ごとに、発掘・採集遺跡(地点)名、発掘・採集年月日、発掘・採集・寄贈者名等を記し、資料本体には、番号のみを墨や白い塗料などで小さく記入するか、タイプライターで番号を打った小さな紙を貼り付けました。こうすれば、万一資料が散らばったり混ざったりすることがあっても、資料番号を整理表に照合すれば、どこの遺跡の遺物かが分かります。

 しかし戦争末期から敗戦後の混乱の中、研究所の資料を防空壕に避難させたりするうちに、この「整理表」を含む一部の資料の行方が分からなくなってしまいました。
 散逸をまぬかれた考古資料は、大田区立郷土博物館に、西岡秀雄コレクションの一部として寄贈されます。昭和59(1984)年より、大田区立郷土博物館友の会の全面的な協力を得て整理作業が行われ、昭和63(1988)年、資料目録が刊行されます(『考古部門資料目録(1) ―西岡秀雄コレクション-』)。しかしこの時点では、番号だけが残り、どこの遺跡から出土したのかわからない遺物が多数ある状態でした。
 平成4(1992)年夏、奇跡的な出来事が起こります。西岡人類学研究所の土器・石器・骨類の「整理表」が、なぜか古書店で売りに出されていたのです。これを発見した当時の当館学芸員は直ちに動き、7月6日、博物館の資料として購入します(加藤緑1994「『考古部門資料目録(1)-西岡秀雄コレクション-』補遺」『大田区立郷土博物館紀要』第4号)。こうして西岡人類学研究所の遺物番号が、再び機能するようになりました。
 果たしてコレクションの中から、大田区久が原一丁目・北嶺町周辺に所在する、庄仙(しょうせん)貝塚出土の土器片111点が「再発見」されます。同遺跡は昭和初期の調査などで、縄文時代中期を中心とする大規模な集落遺跡であることは知られていたものの、現存する遺物が少なく、詳しい実態が分からない状態でした。この「再発見」により、新たに同貝塚の貴重な実物資料が得られ、縄文時代中期中葉の勝坂式、中期後葉の加曾利E式を中心とする時期の遺跡であることも再確認されました(加藤緑1994「庄仙遺跡採集遺物の紹介」前掲紀要所収)。西岡の厳密な資料管理、博物館友の会の精力的な作業、博物館の資料収集活動の3つがそろって実現した成果と言えます。

(注釈1)平成5年4月23日に行われた座談会「大田区の遺跡を語る」(出席者:江坂輝彌・西岡秀雄・吉田格、司会:関俊彦)。『史誌』第39号(1994 大田区史編さん室)所収。
(注釈2) 宝萊山古墳の調査の経緯については、本文中でご紹介した細合・三宅『武蔵野』への報告、『楽石雑筆』昭和9年12月16日記事のほか、穴沢咊光・西岡秀雄1981「田園調布宝来山古墳の研究」『史誌』第15号 大田区史編さん室 をもとに作成しました。発掘調査の正確な日付は、大場が西岡から聞き取って『楽石雑筆』にメモしたものです。
(注釈3)江坂輝彌による本村町貝塚調査の経緯については、本文中でご紹介した江坂の『考古学雑誌』への報告と、注釈1の座談会での江坂の発言をもとに作成しました。

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