第9回 川瀬巴水 学芸員コラム

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更新日:2022年3月1日

戦後の作品と交流(2)

 版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第9回は第8回に引き続き、戦後の活動にスポットをあて、東京の風景を主題とした作品と多岐にわたる交流の一端を紹介します。

山本海苔店の仕事

絵葉書サイズの版画制作
 大田区の大森では古くより海苔養殖が盛んでした。写生帖第20号の末尾に記された日記には、名古屋に出かけた際に海苔を手土産としたことが綴られています。海苔は巴水にとっても身近な存在だったといえます。
 巴水は旅に出てその旅先の風景を主に作品として出版していましたが、財閥や企業、演劇関係者などから依頼されて作品を提供することもありました。そのなかに海苔を製造・販売する山本海苔店からの依頼があり、海苔とのかかわりも深まります。以降、巴水は店に飾る肉筆画(水彩画)や絵葉書、海苔の包み紙の図案制作などを連年請け負うようになります。
 嘉永2(1849)年創業の山本海苔店は東京都中央区日本橋に所在し、江戸時代より続く老舗の海苔店です。巴水と山本海苔店の仕事は、日記では昭和 26年から同 29 年頃まで確認できます。昭和 26(1951) 年 4 月 29 日、巴水は山本海苔店の主人・五代目山本德治郎への贈呈品として肉筆画の提供を頼まれ「山中湖の夜明け」を届けます。これが山本海苔店との関係の始まりです。その約 1ヶ月後の 6 月 3 日に絵葉書の制作を依頼され、早速6 月 5 日に「山本海苔店はがき製作の見分に行き 山本店へより」、翌日には「山本のり店の絵はがき原画をかく」とあります。原画をもとにした絵葉書サイズの版画は、海苔乾しの作業場と富士山、『東海道名所図会』を参考にしたもの、山本海苔店の「まるうめマーク」が描き込まれた日本橋の風景などが確認できます。

 絵葉書の仕事の一つである「仮題/森ヶ崎海苔乾し」(昭和28年)は、巴水の日記に「森ヶ崎の図の絵はがき 原画並にせんがきして山本さんへ午後とゞける」(昭和28年10月28日)とその制作過程の一端が記されています。その構図は、昭和7年作「森ヶ崎の夕陽」と酷似しており、絵葉書は本図を参考に描かれたものと推測できます。昭和7年の作品との相違点としては、海苔乾しに従事する人が描き加えられており、より「海苔づくり」に重きが置かれています。山本海苔店からの依頼ということが作用し、海苔づくりを意識した作品に仕上がったものといえるでしょう。


川瀬巴水 絵葉書「森ヶ崎海苔乾し」


川瀬巴水「森ヶ崎の夕陽」昭和7年作

 絵葉書サイズの版画制作にあたっては藤原という人物が版を担当しました。日記の「山本さんへ行き 待合せし藤原氏共に芳町の高橋さんへ案内され すり合せをなし 藤原氏と共にまた山本さんの店へ戻り すり合せを見せる」(昭和26年6 月16 日)という記述から、巴水と山本海苔店との間で進められた仕事であったことが明らかとなります。

海苔場の見学
 巴水は山本海苔店が所有していた海苔場も見学しています。昭和29年3月10日の日記に「九時の約束で大森駅へ行き小池さんにあい―一ツたん小池さんへ行き 大森八丁めの海苔場へ案内され……見学して ひる天浅でちそうふになり」とあり、山本海苔店が大田区の大森に所有していた海苔乾し場(現大田区大森東五丁目2番付近)に案内され、見学後は天ぷら屋(現大田区大森本町二丁目32番 7号にかつて所在。後に現大田区大森北六丁目27番1号に移転。現在は閉店)へ移動したことがわかります。日記中に出てくる 「小池さん」 とは、山本海苔店で番頭を務めていた小池善一郎のことです。巴水が仕事の際に日本橋の店を訪れたときは、彼を通していたことが知られます。山本海苔店との仕事上の付き合いは昭和29年頃を最後としますが、その後も年始の挨拶用や旅先への手土産、知人への贈答品として店の海苔を購入していました。

竹田人形座舞台装置のデザイン制作

 巴水作品と言えば、風景画が代表的な作品として挙げられます。しかし、巴水が手掛けた仕事のなかには舞台装置をデザインしたものも見ることができます。
 昭和30年10月6日の日記には、「竹田人形座の円城寺清臣氏 竹田さんの弟子の二人見へられ 十月公演(三越)の日高川の舞台そふちをたのまれる パンフレツトの表紙も……」とあり、竹田人形座秋季公演の「日高川入相花王(ひだかがわいりあいざくら)」の舞台装置のデザイン制作を依頼されたことがわかります。その後の日記によれば、10月17日から背景の作画に取り掛かり、19日に両袖や柳・舟を描き完成させ、21日は出来上がった舞台画を渡しています。さらに、このときにウイスキーをもらったことや、公演日の11月18日に妻を連れて観劇したことが綴られています。
 出来上がったパンフレットに巴水は「日高川の舞台装置」という文章を寄せています。そこには、当初は断るつもりでいたが、子供の頃から人形に興味を持っていたことや、昭和6年に結城人形劇の舞台装置を手掛け楽しんだことを思い出し、この仕事を引き受けたと述べられています。 
 巴水は幼い頃より、芝居好きの母の影響でよく歌舞伎座などに足を運んでいました。竹田人形座の舞台装置の他にも歌舞伎の道具帳(舞台画)を描いたり、戦前の写生帖には歌舞伎公演中の様子をスケッチしたものも見受けられます。風景版画以外であっても自らの関心ごとに結びつけ、巴水は作品制作に取り組んでいったのです。

川瀬巴水「日高川」の舞台帳

柳田国男との交流

 ところで、巴水の日記を読み進めていくと、時として意外な人物との知られざる交流に驚かされることがあります。日本民俗学の碩学・柳田国男との交流もそうした例のひとつです。 
 昭和31年4月14日の日記によると、知人を介して作品制作の依頼を受けた巴水は、絹色紙「木負の春」を書き上げますが、この作品は依頼主の先生にあたる柳田に新築祝いとして贈られる予定のものでした。ところが「絵が気にいらず画料なしでかき直してもらひたい」と伝えて来た依頼主に巴水は「そんな事は出来ない」と断ったといいます。それからしばらく経ったこの日、柳田門下の鎌田久子が巴水の家を訪ねてきました。結局、上記作品は柳田に贈られたようで、作品を大変気に入った柳田は、自らの著書『母の手毬歌』を巴水にあげてほしいということで、彼女がその名代でやって来たことを日記は伝えています。
 柳田は世田谷区成城の自宅に和風家屋を建築し、隠居所として昭和31年1月より妻の孝とともに住み始めました。日記が記す新築祝いは、この建物の新築に伴うものとみて間違いありません。実はこれには後日談があり、同月27日の日記に「十四日にもらひし本(母の手まり唄)の御礼に柳田国男先生へ智異山せんいん寺の版画を送る」と記されています。 義理堅い巴水は著作受贈の御礼として「朝鮮 智異山泉隠寺」『続朝鮮風景』(昭和15年作)の版画を柳田に贈ったのです。

六代目三遊亭円生の入院見舞い

 もう一例。芸事を好んだといわれる母親の影響か、落語好きであった巴水は、寄席を聞きに行き、落語家主催の勉強会に参加することもしばしばで、そのことを伝える記事が日記には散見します。なかでも六代目三遊亭圓生とは親しかったようです。
 両者の付き合いがいつ頃から始まったのかは定かではありませんが、大正12(1923)年9月の関東大震災前後には知遇を得ていたと圓生自身によって回顧されており、震災後に圓生が始めた落語勉強会「橘会」の会員にもなっていたようです(三遊亭圓生『浮世に言い忘れたこと』小学館、2017 年)。一方で、圓生も巴水の作品を展覧会会場で観覧したことが知られています。昭和28(1953)年の5月8日から13日にかけて銀座松坂屋で開催された「伊東深水・川瀬巴水 現代木版画展」に毎日足を運び来客対応に努めた巴水は日記記事の末尾に自らが関係する来場者の氏名を日々書き付けました。そのなかに圓生の名が記されているのです(同年5月9日)。
 晩年、入院生活を余儀なくされた巴水を見舞いに、渡邊版画店の仕事仲間や郷土会の面々が病院を訪れました。圓生も入院中の巴水と面会していますが、日記によると、巴水は「今入院中を知らせ見舞でなく遊びによってくれ」(昭和32年3月14日)と圓生に葉書を出したといいます。日記を読む限り面会を巴水の方から求めたのは圓生ただ一人です。数日後の記事に「カーネーシヨンを見舞に円生さんきてくれる」とあり、「久しぶりでいろいろ芸談なぞ話合ひ面白かったり」(同年3月18日)との記載は両者の深い交流を示すものとして印象的であるとともに、闘病を続ける巴水にとって一時の癒しとなったであろうことは想像に難くありません。

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