第15回 川瀬巴水 学芸員コラム

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更新日:2022年6月1日

戦後の作品と交流(4)

 版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第15回は第14回に引き続き、戦後の活動にスポットをあて、旅先の風景を主題とした作品と多岐にわたる交流の一端を紹介します。

茨城キリスト教大学の仕事

 巴水の晩年の仕事として、茨城キリスト教学園の肉筆画と絵葉書制作に携わったことが知られます。学園から依頼された仕事を日記の記述から拾うと、昭和24(1949)年10月27日の「大ミカ シオン学園写生の件にて水戸行」を始まりとして、同30年11月頃まで制作が続いたことが確認できます。
 当館には、茨城キリスト教学園の理事長ヴァージル・H・ローヤー氏の邸宅を描いた水彩画が収蔵されています。本作品は、昭和27年3月14日から16日に茨城を訪れた際、スケッチし制作されたものです。この後の日記には、「ローヤーさんのうちをかき出す」(3月20日)とあり写生のために訪れた水戸から帰り作品制作に取りかかっていることがうかがえます。しかし、「この二枚目もこふ図 意に満たずまたかき直す事にする」(3月25日)と日記には綴られ、三度目の書き直しで3月28日に完成します。スケッチと比較すると若干の角度の違いを見ることができ、試行錯誤して完成させたことがわかります。


川瀬巴水「仮題/茨城キリスト教学園 ローヤー邸」昭和27年


写生帖第76号

伊東深水との二人展

 戦後、伊東深水との二人展が昭和28年5月を皮切りとして複数回行われています。日記によると、銀座松坂屋で開催された5月の展覧会では毎日会場へ足を運び来客の対応に勤しみました。なかには、笠松紫浪や西田青坡といった旧郷土会同人の他、真野紀太郎(洋画家、現大田区南馬込に在住。当日は面会せず)や六代目三遊亭圓生らの名前が列記されています。次いで同年9月に開催された名古屋松坂屋展に関しては9月10日と最終日13日の日記に「大イにうれる」とあり、盛会であったようです。

 さらに昭和30年9月には岡山天満屋でも二人展が開催されました。同年6月3日の日記には「きのふ村川君からの手紙の岡山の版画展の件にて」渡邊版画店へと足を運び、若主人の渡邊規より開催の許可を得たとあり、前日巴水の弟子である村川源之助より手紙で二人展開催の打診があったことがわかります。9月14日には「岡山行みやげ」として馴染みの山本海苔店より焼き海苔を購入し、16日にいよいよ岡山へと向かいました。
 現地では村川が何かと世話を焼いており、彼の案内で山陽新聞社や山陽放送を訪ね、展示会場の設営も「主として村川君やつてくれる」と18日の日記にはあります。加えて、連夜にわたり巴水を酒席に連れ回しました。さすがに連日のことで飲み疲れたのか、23日には「今日はやどへ村川君とわかれてかへる」、24日も「村川君のさそいをことわり……宿へ戻る」と日記には綴られています。
 肝心の展覧会の方は9月20日から25日までの会期で開催され、60点余りの出品作品のなかに岡山市に所在した鐘撞堂を描いた「岡山のかねつき堂」(昭和22年作)もあったためか、話題を呼んだようです。開場から2日目、「かねつき堂 十枚もつて来たりしが 今日でたりなくなりそふ 店へ速達を出す 今日も十何枚かうれる 弁ご士の方で八枚買つてくれし人あり」(21日)という記事が見られ、本作を含め巴水の版画は好評を得ました。また、24日には「今日もうれ行き上々 来館者にぎあふ 廿一日八枚買つてくれた人 今日もあらわれ 五枚買つて行かれる」とあって、連日来場者で賑わい、展示されていた版画も大いに売れて盛況であったことが日記より伝わります。展覧会閉会後は広島県福山市へと足を延ばし木之庄町などで写生を行いました。四国にも渡ることを計画していましたが、これは台風の接近により断念。自宅に着いたのは30日のことでした。
 岡山天満屋では昭和32年2月にも伊東深水との二人展が開催されています。当時は体調を崩して入院中であったため、巴水には「かなり景気がよかった」(2月27日)との手紙と写真でその様子が知らされるのみでした。


川瀬巴水「岡山のかねつき堂」昭和22年作


岡山天満屋「伊東深水・川瀬巴水 現代木版画展」会場 昭和32年2月

 ところで、巴水は深水が大正7(1918)年に制作した『近江八景』を見て木版画に関心を寄せたことが知られています。鏑木清方の門人として、風景画と美人画の分野で新版画制作をリードする同志として互いを認め合っていました。深水は巴水に対して、郷土会第十五回展のパンフレットで「川瀬巴水君は実に清親以後の風景版画家として唯一の存在です」と評し、巴水の芸術は旅において生まれ、旅において完成されたとして「旅情詩人」と呼んでいます。その一方で、版元である渡邊庄三郎が歌川広重への崇拝が過ぎるとして「川瀬巴水氏の版画の如きも、本当のところ広重の技法の継承にすぎず、川瀬氏のもつ個性の表現が透徹してゐるとは言へません」(「過去非」『浮世絵芸術』第2巻第11号、1933年)と率直な意見を述べました。深水は、当時の新版画の現状を憂い、巴水の名を出して版元・渡邊庄三郎への進言を行ったのです。しかし、これには「お互に反省し合つて、いいものを作りたいといふ私の真心の現はれとして、大目にみてもらひたい」という意図があり、同じく新版画に携わる画家として切磋琢磨していく思いを記したと解されます。この言葉の通り、巴水と深水は互いの分野で版画制作を行い、後年まで渡邊版画店を支えました。

奈良でのカラー映画の撮影

 昭和30年11月19日から23日まで、巴水は渡邊規と奈良へ写生旅行に出かけました。これは規が撮影・制作する「色の映画をとる為」で、その時に撮影されたカラーの記録映画では「法隆寺 西里」(昭和31年作)の制作工程が記録され、写生・原画・線描き・主版彫り・校合摺・色ざし・色版彫り・試摺・本摺(完成)が順を追って紹介されています。彫師や摺師の仕事も丁寧に撮影されており、また巴水を撮った写真はモノクロがほとんどであるため、カラー動画で残された巴水の姿は貴重といえるでしょう。
 この旅行は、11月19日の夜行にて奈良へ旅立ち、20日の朝から奈良市内の喜光寺や法隆寺周辺を写生。21日は法隆寺の他、中宮寺・法輪寺・法起寺・竜田川をめぐり、22日は規の撮影するなかで法隆寺裏の農家や西里の町並みを写生して歩く工程でした。そして、22日の夜行に乗車し、23日朝には東京に到着しています。旅行中には火事にも遭遇しましたが、21日の日記に「遠くと見へ 近所さわがす。若主人の話には火も見へざりし由」と記す通り、大事には至らなかったようです。
 奈良への旅行は、70歳を超えた老年の巴水にはタイトなスケジュールで疲れが残るものであったとみえ、帰宅した翌日の日記には「くたびれぬけず 店へ行くのをよしてキリスト教学園の絵はがき せんがき 原画をかく」(11月24日)とあります。この写生旅行からは、「法隆寺 西里」の他、「法隆寺」「法隆寺 東里」(いずれも昭和31年作)などの作品が制作されました。 
 なお、記録映画のナレーターは当初巴水が務める予定でした。しかし、アメリカでフィルムを現像している最中に巴水が亡くなったため、規が代行したという逸話が残っています。
 


川瀬巴水「法隆寺」昭和31年作


川瀬巴水「法隆寺 東里」昭和31年作

最晩年の作品制作をめぐって

 最晩年の巴水は、好きであった旅に出ることもなく過去の写生帖をもとに作品を制作することが多くなりました。亡くなる年、制作に取り組んだ作品を2点紹介します。
「三保の朝」(未完成)
 昭和32年1月8日の日記には、「古い写生のうちから三保の松原の朝をかき出して見る〔この版がなくなつてゼツパンなつている〕」とあります。構図からみて「三保の松原」『東海道風景選集』(昭和6年9月作)の写生帖をもとに制作を始めたと考えられます。


「三保の松原」『東海道風景選集』昭和6年9月作


写生帖第32号 朝の三保(昭和6年8月20日)

 下描きを開始してから何枚か描いたものの体調が思わしくなく、1月19日「午前 三保の松原かき直し 四枚目をかく 完成近けれど 気もちわるくねる」とあり、一度ここで制作を中断します。下描きを再開したのは、同年4月8日で、「去年二三枚かいて気に入らず其まゝにしておいた三保の松原の朝のの鉛筆の下がきをやり出す」と見えます。そして4月11日「きのふから始めし二度目の三保の朝のせんがきをなし 松だけ色を入れる」、4月12日「さい色をしたが 面白くなく 新きにまたかき直す事になし ヱン筆でせんがきをなす 曇り時々少雨 私のきらひな日なり」と続きます。ここに掲げた原画「三保の朝」は、マージン(作品の周囲にある余白)の日付の記載よりこの時に納得がいかず採用されなかったものと考えられます。この後、4月26日に完成した原画を渡邊版画店へ持ち込み、制作が決まります。5月23日には色ざしに取りかかった記述があり、試摺の存在も確認されますが、完成には至らなかったとされます。

絶筆となった「平泉金色堂」
 平泉を描いたこの構図は、昭和9年にスケッチされたもので、翌 10 年には夜の情景で制作されています(「平泉 中尊寺金色堂」『日本風景集 第一輯 東日本篇』昭和10年10月作)。
 巴水は、昭和32年5月3日、原画の金色堂の下描きを始めます。何度か描き直し、同月12日、原画が完成。14日から線描きを始めますが、気に入らず描き直しを繰り返しました。5月26日には、「やつと今日かき上る この金色堂のせんがき 下がきともで八枚かいたわけで 原画も二三枚かいた これはどふ云ふわけでそふなつたのか ただ病後せいとばかりとも云へなそふで…」と制作過程での不安を漏らしています。さらには、5月28日、「廿六日にかき上つた金色堂のせんがき馬鹿な話でどふも好ましくないので とふとふ下がきと共に九枚目を朝からかき出し 夕方出来る こんだはまよわず これで店へもつて行くつもり 版画『ノイローゼー』… …これでおしまいにしたいものだ…」と吐露します。そして少々の手直しを加え、線描きを5月31日に店へ届けました。スケッチには二人の旅行者が描かれていましたが、病床につき死を意識したのか雲水(修行僧)の姿に描き変えています。病魔との闘いのなかで制作を続け、何度も階段を上る雲水の位置を確かめたといいます。線描きを終えてから約半年後の11月27日、巴水は作品の完成を見ることなく、胃癌によりこの世を去ります。自身の姿を投影したとも思える本作品を残し、巴水の長い旅は終わりを迎えたのです。

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