第3回 川瀬巴水 学芸員コラム

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更新日:2022年3月1日

戦時下を生きる

 版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第3回は「戦時下を生きる」と題し、戦争関係の作品や戦時下での馬込の暮らしについてご紹介します。

日本軍の勇姿を描く

 昭和12(1937)年の日中戦争勃発以降、戦争をテーマにした芸術作品が数多く制作されました。日本国内全体が戦時体制へと強化されるなかにあっては芸術家も戦争とは無関係ではいられなかったのです。数は多くないものの、巴水も戦争関係の版画を制作しています。しかし、従軍経験を持たない巴水は雑誌の写真などに基づいて作品制作を進めたようで、日本軍の進軍を描いた「あかい夕日」や敵陣に攻め込む様子を描いた「とつげき」にはどこか臨場感や迫力に欠ける印象を抱かざるを得ません。

写真:川瀬巴水「あかい夕日」昭和12年9月作
川瀬巴水「あかい夕日」昭和12年9月作

写真:川瀬巴水「とつげき」昭和12年作
川瀬巴水「とつげき」昭和12年作

巴水の献納作品

 日本一の高さを誇り、その壮大かつ秀麗さゆえに多くの人々を魅了してきた霊峰・富士も戦時下にあっては、いわく「日本の精神的金字塔」、いわく「祖国愛の精神的支柱」としてもてはやされ、芸術家には富士を題材とした作品の制作が求められました。40年近い画業生活のなかで巴水も50点ほど富士を描いており、もちろん戦時中にも富士を題材とした作品を制作しています。そのひとつ、「明け行く冨士」は昭和16(1941)年9月20日の5時半に写生を行ったことが知られる作品です。朝焼けに照らし出された富士はまさに輝かしい日本の象徴として描かれているようにも見受けられます。本作の制作年代については判然としませんが、昭和17年8月10・11 日の日記に本作の色ざしに関する記述が見えますので、ひとまず同年の制作と推定することができるでしょう。この作品は陸軍に献納されたともいわれていますから、もしこれが事実とすれば、本作はあるいは彼の創作意欲の発露から制作れたものではないのかもしれません。


写生帖第60号 河口(9月20日5時半)


川瀬巴水「明ゆく冨士」昭和17年

 巴水が描いた献納画には昭和18年に軍事保護院に献納された日本画「富士」もあったようです。このことは昭和18年4月1日付で軍事保護院総裁から日本画「富士」を献納した巴水に宛てて出された感謝状の存在が裏付けています。日記には同年1月6日に「けんのふの絵 冨士の下がきを始む」とあり、7・8日と制作が続けられ、9日の「午前冨士の絵出来上る」と記されています。そして、翌10日の「夜食後 糀町 下二番町清水へけんのふ画冨士をとゞける こゝで表装して会場へ持ちこんでくれる事になっている」とした巴水は、20日に「上野へ行き府の美術館でけん納画の展らん会を見る」と綴りました。以上の経緯からすると、日本画「富士」は同日から 5日間の会期をもって東京府美術館(現東京都美術館)で開催された日本画家報国会主催の「全日本画家報国献納画展」に出品された可能性が指摘できます。同展覧会は日本画家報国会が全国の日本画家に呼び掛けて、出品総数 1700余点を数える大企画として実施され、うち500点が軍事保護院へ献納されたといいます。日本画「富士」はこのうちの一点であったと目されます。


昭和18年4月1日 感謝状


日記 昭和18年1月6・7日

和歌山への戦傷病者慰問旅行

 ところで、巴水の版画は昭和12年から同14年頃にかけて「芸術的に落ちて来ている」(楢崎宗重「川瀬巴水 版画とその生涯」渡邊規編『川瀬巴水木版画集』〔毎日新聞社、1979 年〕230 ページ)ともいわれています。これには日中戦争の勃発や版元・渡邊庄三郎の娘婿である規の出征が関係していたとの指摘がありますが、心理的動揺が作品制作に与える影響は大きかったと言わなければなりません。また、戦時統制も版画制作に大きな影響を与えました。彫師・摺師の出征や疎開、はたまた版画資材の欠乏という条件の下では、戦時中に佳作が少ないのは無理からぬことといえるかもしれません。しかし、旅先での写生を作品制作の源泉としていた巴水にとっては、写生もままならない事態の到来が最もこたえたのではないでしょうか。
 昭和17年5月、和歌山県に出向いた巴水は21日の日記に「二三日前より急にやかましくなり此辺写生出来ず」と記しています。和歌山県は同年4月にアメリカ軍の空襲にさらされており、戸外での写生が同所では困難になってきていたのかもしれません。日記によると、この和歌山旅行は戦傷病兵の慰問を主目的とするものでした。同行者は宮尾しげを・水嶋爾保布・細木原青起・清水對岳坊・服部亮英らの漫画家・挿絵画家で、ユーモア作家の佐々木邦を団長としていたようです。20日に和歌山入りした慰問団一行は、翌日は市内の赤十字病院、 翌々日は白浜の療養所へと赴き、色紙に揮毫を施しました。その後は京都大学理学部附属瀬戸臨海実験所水族館や那智滝・瀞八丁・徐福墓・紀三井寺などを見学しています。時に写生を行いつつ、巴水は26日に家路へと向かう一行と別れ、静岡に寄ってさらに写生を続け、28日に帰宅しました。この時の静岡での写生に基づき制作されたのが『東海道風景選集』に収められた「東海道 原の冨士」です。


白浜の療養所にて 昭和17年5月22日 前列左から、宮尾しげを、川瀬巴水、水嶋爾保布、佐々木邦、細木原青起、清水對岳坊・服部亮英


川瀬巴水「東海道 原の冨士」昭和17年作

銃後の暮らし

 版画絵師としてではなく、馬込に暮らす生活人として巴水をみた場合、日記には「東二丁目町会の星港陥落奉祝旗行列あり 八幡さまへ行く(これに五円寄附す)始めて国民服をきる」(昭和17年2月18日)や「大森駅にてげーとるをやれと防護団の人々に注意さる」(同18年5月14日)などの記述があり、他の人々と変わることのない戦時下を生きる彼の姿をそこに見出すことができます。のみならず、彼は所属の東二丁目町会やその下に編成された隣組の活動に妻の梅代とともによく奉仕しました。試みに、昭和17年の日記から関連記事を拾うと、1月に家庭防空図面作成に関して隣組をまわった他、同月28日に町会事務所へ組員全員分の衣料切符を受け取りに行ったり、4月10日に隣組の慰問袋を事務所に届けたりしたのは隣組の組長としての務めであり、2月7日の記事に「朝隣組の防空のけんゑつがあるので隣組を一々訪問 用意をさす」と見えるのも同様と推測できます。また、昭和18年4月27日には町会消費経済部の幹事にも選出されており、自由業かつ実直な仕事ぶりゆえ、地域の銃後組織内で重きをなしていたであろうことがうかがい知れるのです。

防空演習への取り組み

 しかし、そんな巴水も空襲を想定した防空演習(防空訓練)への取り組みには積極性に欠ける面があったようです。この点は、例えば昭和18年の日記に「午後 防空演習あり 御梅出かける 私出ず」(3月13日)、「朝五時から 晩九時まで 防空そふ合訓れん 御梅それが為 風引く 私は出ず」(3月25日)、「朝九時 防空演習を隣接のとなり組連中とやる 私は出ず」(7月13日)などの記事が見え、果ては「防空待避訓練 朝八時からあり あと二時 五時 七時 各約二時間づつあり うちの防空待避所へ始めて入る 御梅一人はたらき ひるは大方ひるね」(7月15日)とも記されたことに明らかといえるでしょう。東京への大規模空襲が開始されるのは昭和19年7月のサイパン島陥落以降、その年の11 月からです。ですから、 昭和18年の防空演習は馬込に未だ空襲被害が出ていない時期のことであり、訓練に切迫感はなく、ゆえに不参加となる場合もあったのではないかと想像されます。もちろん巴水が訓練に全く参加しなかったわけではありませんが、梅代の真面目な参加態度に比べる時、巴水のそれは消極的であったと言わざるを得ません。

馬込の自宅にあった倉庫

 この他、戦時関係では昭和18年12月17日の記事に「午後 リヤーカーの版木を倉庫に入れるべく渡辺主人来る リヤーカー三時半すぎに来る 倉庫の礼なりとて十円くれる」と見えることが注目されます。これによれば、馬込の巴水宅には渡邊版画店の倉庫があり、版元の渡邊庄三郎が版木の一部を同所に預け疎開させていました。楢崎宗重「川瀬巴水 版画とその生涯」(渡邊規編『川瀬巴水木版画集』毎日新聞社、1979 年)は、庄三郎が東京空襲の激化に伴い、版画や版木の類を数ヵ所に分散疎開させた点を指摘しており、あわせて個々の疎開先についても言及がありますが、巴水宅は具体例に挙げられていません。日記を読み解くことにより初めて明らかになった事実といえるでしょう。
 昭和24年7月10日、日記は「馬込――店の倉庫とりこわし見分」と記しています。この日版木を疎開させていた倉庫が取り壊されることとなり、巴水はそれに立ち会いました。では、疎開させていた版木はどうなったのかといえば、昭和23年8月23日に「朝馬込へ行く 倉庫の版木を牛車で店へ運ぶ為 若主人と辰ちやん馬込へ来る」とあり、取り壊し以前に牛車で店へと運び出されたことがわかります。そして、翌年6月28日には「馬込の物おき今朝辰ちやん行き全部店へ運ぶ」と記されており、これを以て倉庫からの搬出は完了し、翌月の取り壊しに至ったものと推測できます。
 なお、馬込の巴水宅は昭和26年には売却され、人手へとわたりました。

栃木県塩原への疎開

 戦況が次第に悪化の一途をたどるなか、巴水は懇意にしていた和泉屋旅館の田代源一郎の勧めで、ついに東京を離れ、昭和19年8月に幼少期を過ごし木版画の処女作の舞台ともなった栃木県の塩原へと疎開を余儀なくされます。塩原での巴水は、東京から持参した版画を売ったり、求められるままに肉筆画を手掛けたりして、生計を立てていました。そうして終戦も塩原の地で迎えることになりますが、日記にそのことは書き留められておらず、遺された記録から終戦時の巴水の感慨を推し量ることはできません。 

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