第12回 川瀬巴水 学芸員コラム

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更新日:2022年4月28日

旅先を描く(3)

 版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第12回は旅好きであった巴水が訪れた旅先の風景を主題とした単独作品をご紹介します。

温泉を好んだ巴水

 幼い頃の巴水は体が弱く、養生をかねて伯父伯母のいる栃木県の塩原温泉で過ごすこともしばしばでした。温泉場が身近にあったことが影響してか、巴水は日本各地の温泉をよく訪れ、またその風景を作品に残しています。ここでは、温泉場を描いた2作品を紹介します。
 まず1作目は、修善寺の独鈷の湯(静岡県伊豆市)を描いた作品です。独鈷の湯は桂川沿いにあり、弘法大師が湯を噴出(掘削)させて以降、修善寺温泉が湯治場として知られるようになったと伝わります。近代に入ると文豪たちが好んで訪れ、詩歌や文学作品がこの地から多数生み出されました。
 本作では雨の中で女性たちが入浴しているように見えますが、昭和 8(1933)年 5 月18日のスケッチには湯浴みする男性の姿が描かれています(写生帖第40号)。作品化するにあたって、情趣あふれる修善寺温泉の露天風呂には艶やかな女性こそ相応しいと考えたがゆえの変更であったのかもしれません。また、春の雨が描き加えられたことで、温泉場の風情がより強調されています。


川瀬巴水「修善寺の雨」昭和8年作


写生帖第40号 修善寺独この湯(昭和8年5月15日)

 法師温泉は、群馬県利根郡みなかみ町に所在する温泉で、弘法大師が諸国を巡っていた時に発見したと伝えられます。作品制作の舞台となった温泉宿「長寿館」の浴室内部や外観の趣は巴水が訪れた時と変わらず現在まで残されています。
 写生帖第40号には、法師温泉へ「温泉協会旅行会」で訪れたというメモが残ります。ゆったりと湯につかる人物は写生帖では若い男性とも受け取れますが、作中では巴水によく似た人物となっています。自身を作中に登場させるなど、この温泉に愛着を持っていたことが想像されます。画面左に立ち上る湯気は空摺り(色を付けずに彫りと摺りで凹凸を表現する技法)が施されており、温かな空気を表現する工夫がみられます。


川瀬巴水「上州 法師温泉」昭和8年12月作


写生帖第40号 法師温泉寿の湯 昭和8年9月10日写


写生帖第40号 長寿館


現在の外観 平成29年撮影

観光ポスター「Japan」の制作

 昭和5年に鉄道省が創設した国際観光局は、日本文化の高揚や観光産業の開発による外国人観光客の誘致を目的として創設されたもので、その業務の一つに観光ポスターの発行がありました。昭和7年、そのポスター制作の依頼を受けた版元の渡邊庄三郎は店の二枚看板である巴水と伊東深水の作品を起用することにします。そして、この時に制作されたのが右の観光ポスター「Japan」です。巴水の“The Miyajima Shrine in Snow”(「雪の宮嶋」)の木版画を貼付したものであり、深水の木版画A Theatrical Dance entitled“Dōjōji”(「娘道成寺」)貼付ポスターとともに、それぞれ1万枚、計2万枚が制作されました。通常、渡邊版の木版画は、1度に100枚から200枚、多くても300枚摺るのを上限としていたため、1万枚という数のポスター制作には大変な苦労があったものと想像されます。
 巴水の「雪の宮嶋」は、主版(墨板)1枚で墨摺を摺り、3組の色版(色板)を作りました。それぞれの摺り上げ数は10回、3500枚ずつ制作したとされます。野外に貼り出されるポスターということを意識してか、廻廊や鳥居に使われている赤は通常よりも明るい色を使用しており、作品の下にタイトルと作者・版元の名前が赤字の英語で摺り込まれています。木版画を貼ったオフセット印刷の台紙は、日本画家・野口謙次郎が松と波を描きました。いずれも“海外”を意識した日本らしさを象徴する対象の選定ということができるでしょう。

 巴水は、観光ポスターの他にも国際観光局の仕事を受けています。ポスター制作の2年後の昭和9年、翌年のカレンダー用に「精進湖より望む暁の富士」を2万枚、クリスマスカードとして「日光神橋の雪景」を4500枚制作しました。庄三郎が「国際親善を築く基に成ります」(『木版画目録』渡邊版画店、1935年)と述べた通り、これらのカレンダーやクリスマスカードは、山川秀峰の「追羽根」(クリスマスカード)とともに、日本宣伝のために当時の各国首相および各省大臣へ贈られたといいます。
 なお、観光ポスターやカレンダーはそもそも海外向けに制作されたため、国内ではほとんど流通していなかったようです。巴水の作品を展示した展覧会等でも滅多にお目にかかれないのはそのためでしょう。

その他の作品

出版まで4年かかった「越中庵谷峠」
 本作は富山市庵谷と片掛を結ぶ神通川のS字の流れを奥行きが強調される長絵判で鳥観図的に制作されたものです。大正12(1923)年10 月からの長期写生旅行に出た巴水は、長野県で「木曽の寝覚」「木曽の須原」、岐阜県で「飛騨中山七里」の写生を行い、11月初旬に富山県入りしました。
 巴水は、関東大震災後の旅を述懐して、「渓流の趣きが非常に趣味があるので写生帖に収めた」(川瀬巴水「版画の旅 思ひ出の深い震災直後 漂泊の飛騨越」『都新聞』1925年8月17日)と記しています。神通川の流れと両岸に幾重にも連なる山並みが造り出す渓谷美に心を動かされ筆を走らせたということなのかもしれません。大正12 年作とありますが、実際の出版は後のことで、試摺を繰り返し、4年の歳月を経て昭和3年に版行されたといわれています(楢崎宗重「川瀬巴水 版画とその生涯」渡邊規編『川瀬巴水木版画集』毎日新聞社、1979年)。

藍摺の「牛堀」
 葛飾北斎の代表作『冨嶽三十六景』のひとつ「常州牛堀」で著名な牛堀は、霞ヶ浦の南東端から流れ出す常陸利根川の左岸に位置し、水運・陸運の要衝として栄えました。本作は船頭が雪の降るなかを川の対岸へ舟を渡す様子を描いたものであり、藍摺で仕上げられています。
 牛堀の写生は、昭和4年10 月25日に行われたと推測されますが(写生帖第26号)、この日の写生をもとに渡邊版の本作の他、酒井川口合版の「雨の牛堀」(昭和4年11月)・「牛堀の夕暮」(昭和5年)の合計3図が制作されました。違う版元との仕事を同時進行させる都合上、同日に同一地を数ヵ所にわたって写生して歩き、版元の意向も取り入れながら作品制作を行う場合があったことをこの作品群は我々に教えてくれています。
 なお、牛堀(町)は平成13(2001)年に潮来町に編入合併となり、潮来市の大字となりました。

色違いの「榛名湖」  
本作は、昭和9年8月から9月にかけて上州・東北を訪れた際のスケッチから制作されました。巴水は伊香保や榛名湖、前橋を写生したのちに東北へ向かいます。東北への旅行では「弘前 最勝院」など『日本風景集 第一輯 東日本篇』の作品が多数作品化されました(作品画像は第11回「川瀬巴水 学芸員コラム」を参照)。  
 本作がスケッチされたのは夏であるため、写生帖には濃い緑の山肌と夏の雲が山の背景に描かれています(写生帖第47号)。マージンに押印された版権印から判断すると、先に出版されたのは榛名山が茶色に色付いた方であり、制作年が削られていることから緑色版は戦時中に摺られたものと考えられます。


川瀬巴水「榛名湖」昭和10年10月作 茶色版


川瀬巴水「榛名湖」昭和10年10月 緑色版

彩色された「木崎湖」のスケッチ
 巴水は写生帖を常に持ち歩き旅に出ました。その大半は鉛筆で描かれており、簡単にスケッチしたものから、建物などの細部を精緻に描いたものまで写生帖に残しています。写生帖をめくると、中には色鉛筆や色絵の具で色付けされたスケッチも見受けられます。「信州 木﨑湖」もその中の一作品です。巴水は、昭和16年9月中旬に信州や甲州を巡り、松原湖・木崎湖・川口村・忍野村などの風景を描き留めています。この旅を記録した写生帖には色絵の具で彩色されたものが複数枚収録されていますが、9月17日に行ったという木崎湖のスケッチは特に美しく彩色されており、雨中の湖の情景が情感豊かに表現されています。完成した版画作品とはまた違った印象を与え、スケッチも一つの作品といえる仕上がりを含むものです。


川瀬巴水「信州 木﨑湖」昭和16年作


写生帖第60号 雨の木﨑湖(昭和16年9月17日)

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