第5回 川瀬巴水 学芸員コラム

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更新日:2022年3月1日

巴水の描く人物画

 版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第5回は、巴水が描いた人物画をご紹介します。

美人画を描く

 巴水といえば風景画の絵師として知られていますが、美人画や肖像画、役者絵などの人物を描いた作品も残しています。
 巴水が描いた美人画としては、郷土会第二回展(大正5〔1916〕年)に絹本「女優の妹」(女優・村田嘉久子の妹がモデル)を出品し、版画(大判)では「ゆく春」(大正14年作)の制作が確認されています。「ゆく春」に見えるレモンイエローの背景には雲母摺(きらずり。鉱物粉の雲母を使って銀色の効果を出す)が施され、女性の鼻筋や指先にはきめ出し(紙の表面を盛り上げて立体的に見せる技法)が使用されています。大正2年から銀座の白牡丹でかんざしや帯留めの図案を描く仕事をしていたためか、女性が身に着けている着物や装飾品にも細やかな表現方法が採られているのが特徴です。「ゆく春」が制作された頃の写生帖には、鉛筆による女性像のスケッチがいくつか描かれており、なかには彩色されたものも見受けられます。このスケッチには、女性の仕草や容姿が写実的に描かれ、作品として出版された美人画とは違った表情を見ることができます。

子供へのまなざし

 人物を描いたシリーズに子供を対象とした作品があります。昭和6(1931)年作『子供十二題』の「手まり」と「御人形」は、子供が好きだったという巴水の優しい目線を感じさせる作品です。「十二題」というシリーズ名からは、12作品を制作する予定であったと想定できますが、理由は不明なものの、2作品のみで制作は中断されています。写生帖には、作品のもととなったスケッチの他、親戚や近所の子供を繰り返しスケッチした様子が散見されます。特に、写生帖第 30号(昭和5年頃)にはみかんを手にしたり本を読んだりする少女、そして折り紙をしているように見える少女のスケッチが残ります。これらの対象者は同じ年頃の少女と見え、『子供十二題』のためのスケッチと考えることができるでしょう。また、子供を集中的に描いた写生帖の中には、「手まり」のモデルとなった高城純子氏が頻繁に登場します(写生帖第24号、第30号など)。高城家は巴水が入新井に居住していた頃、近所に住んでいたことから交流が始まりました。巴水が馬込に居を移してからも親交は続いたようで、それが証拠に、馬込の新居が建てられた頃に高城家の面々と撮影した記念写真が残されています。日記によると、かつて大田区にあった遊園地「多摩川園」にも一緒に行ったようです。戦後も疎開先で暮らしていた高城家を巴水が訪れるなど交流は長く続いていきました。


川瀬巴水「手まり」昭和6年2月作


川瀬巴水「御人形」昭和6年4月作

馬込町平張の自宅前で 後列左から2番目が巴水、前列左から3番目の少女が高城純子氏

姿絵に向き合う

 昭和8年頃、巴水は集中的に姿絵(肖像画)を描きました。これは「創作姿絵揮毫会」での制作に伴うものとみられ、写生帖の第42号(昭和8年11月から同9年5月、当館 所蔵なし)・第43号(昭和8年7月から10月)に肖像画のスケッチが多く残されています。この揮毫会の趣旨は「其人の平常家人に最も親しみのある、肖像をかいて見たいので、あへて肖像画と云はず、こゝに姿絵と云ふ名の許に、ありのまゝの其人をかく此画会を起しました」(昭和8年『創作姿絵揮毫会』パンフレット)とし、改まった顔で描かれたものではなく対象者の自然な姿を描くことにありました。そのためか、どのスケッチも自然体の姿を捉えた表情が描かれています。写生帖第43号には、日本画家・山川秀峰の父を描いたスケッチもあり、郷土会の同人との交流を垣間見ることができます。


川瀬巴水自画像(昭和8年『創作絵姿揮毫会』パンフレット)


写生帖第43号 山川<秀峰>氏の父君(昭和8年8月1日)

版元・渡邊庄三郎の孫を描く

 上記の揮毫会と同じ頃の作品で、渡邊庄三郎の孫である渡邊真佐男を描いたものがあります。渡邊真佐男は昭和7年に誕生し、庄三郎にとっては初孫でもありました。写生帖第40号の末尾には、本作に関わる制作日記が残っています。(推定昭和8年)4月11日 の記述に「真佐男君を写生 版下出来」とあるのを始まりとし、4月13日「真佐男君の色ざし」、5月1日に「坊やのすり合せする」と制作作業が進められました。作品のマージン(余白)にある「昭和8年5月写」の記載からも、端午の節句に合わせて制作された作品と考えるのが妥当です。本作は、背景色を変えて数枚制作されたといわれており、販売用ではなく知人に配布された可能性があるとされます。
 昭和11年1月2 日の日記には「渡辺さんへ長門の菓子を持って年始。(中略)坊ちやんに菓子をあげる」とあり、子供が好きだった巴水も可愛がっていた様子がわかります。庄三郎と巴水の盟友関係としての結びつきの強さを物語る作品の一つといえるでしょう。

巴水の役者絵

 巴水は芝居好きの母の影響で幼い頃から芝居を見ており、よく歌舞伎座や新富座・明治座・中村座に足を運びました。後年になっても歌舞伎座に通う様子が日記から読み取れます。例えば、「一行に別れて伊東さんと二人かぶきの楽屋に三枡さん訪問 市村六代目の部屋へ行き 表へ廻つて 高切だけ見て九時かぶきを出」(昭和 11年 1 月19 日)、「午後二時うちを出て 店の新年かんげき会 かぶき伎座へ行く」(同 26 年 1 月16 日)、「店へよりきのふの「のり」二個を進呈 主人と共に タクシーでかぶきへ行く」(同 27 年 1 月 16 日)などとあり、昭和 20 年代後半には渡邊版画店での新年会として観劇の席が設けられていたことがわかります。
 こうした芝居好きが高じてか、歌舞伎座や役者絵の版画、『演芸写真帖』の表紙や口絵に歌舞伎俳優の顔や舞台装置を描く仕事も手掛けました。また、歌舞伎や人形劇の道具帳(舞台の装置画)の制作も引き受けており、鑑賞にとどまらず舞台芸術にも関心を寄せていたようです。歌舞伎役者とも交流があり、日記に「幸四郎に宗右衛門町 森ケ崎の夕(額附)あげる」(昭和11 年1月23日)や「かぶき座 堀越さんの楽屋 海老蔵に初対面」(同15年5月7日)などの記事が見えることがそのことを示しています。


川瀬巴水「松本幸四郎 関兵衛」昭和25年作


「尾上菊五郎の禿たより戻籠の舞台面」『演芸写真帖』第6巻第3号(昭和2年3月1日発行)

 巴水といえば風景画という印象が強いといえますが、自らの関心ごとに結び付け、様々な仕事をこなしていました。制作された数は決して多くはありませんが、人物画制作もそのひとつとして受け止めることができます。

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