第4回 川瀬巴水 学芸員コラム 

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更新日:2022年3月1日

川瀬巴水と塩原(後編)

 版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第4回は第1回の続編として栃木県塩原での戦中・戦後の疎開生活とそのなかで生まれた作品をご紹介します。

塩原での疎開生活

 昭和 19(1944)年8月、空襲が激しさを増したことにより、巴水は幼い頃より通い慣れた懐かしの塩原福渡に疎開します。疎開中は玉の屋旅館や戸村タツ方に滞在し、肉筆画を描いたり、東京から持参した版画を売ったりして、生活の糧としました。また、塩原を起点として水戸や東北にも足を延ばし写生旅行に出掛けています。塩原の人々とも交流を深めながら、終戦後の昭和23年3月末に帰京するまでの3年半を巴水は塩原の地で過ごしたのです。
 もちろん疎開中であっても東京に出向き、版画についての相談や制作の指示も行っています。ただし、写生を重ねても戦時中はなかなか版画に仕上げることができず、戦後の出版となった作品もありました。また、昭和16年から同21年頃の写生帖には作品にはならなかった野菜や果物・植物の写生が残されています。戦時下という行動が制限される事態のなかで、身近な風景のみならず、静物に目を向ける機会も多くなり、自然と描きためられた写生画といえるかもしれません。こうした傾向は塩原にあっても何ら変わることはありませんでした。

写真:写生帖第47号 塩原にて(昭和19年9月20日)
写生帖第47号 塩原にて<みょうが>(昭和19年9月20日)

写真:写生帖第47号 野州の花(昭和21年4月24日)
写生帖第47号 野州の花(昭和21年4月24日)

人々との交流

 日記によると、版画は通常現金で売られたようですが、疎開中はお米による支払いもあったことがわかります。例えば、昭和22年7月26日には「和泉屋にて兼て頼まれし絵の画料米五升の約束の処二升前がりを頼み—もらつてくる」とあり、福渡の和泉屋旅館から注文を受けた作品制作の代金として米2升を前借りしました。和泉屋旅館の田代源一郎とは「兄弟よりも親しい仲」(泉漾太郎「はんぱの文ちゃん」『めしもり曼荼羅』〔中央公論事業出版、1983年〕133ページ。泉漾太郎は源一郎の子息・太平のペンネームで、彼は詩を能くし、小説も執筆しました)といわれるほどに親密で、それがために塩原滞在時には同旅館にいることも多かったといいます。巴水に疎開を勧めたのも源一郎その人でした。また、昭和21年8月12日には 「今日は とてももらひものが多かつた日だ 川長さんからあいが六疋 高野さんから御こわ……となりの和田さんから御かへし(奥さんの不幸の)の下駄 神宮さんからわさびづけ」と、もらいものに関する記事があり、巴水が塩原の人々のなかに溶け込んでいた様が伝わります。

温泉神社の秋祭りにて

 巴水はまた地元の祭りにも積極的に参加しました。毎年9月に行われる温泉神社の秋祭りは塩原最大のイベントと評されます。福渡を中心として塩釜・畑下・門前・古町の5地区が各々の地区で設えた山車を引き回し、お囃子とともに温泉街を練り歩くのを恒例としました。疎開中これに参加した巴水は福渡組の山車に飾り付けられた頂部の鳳凰に彩色を施したことを昭和 21年9月24日の日記に記しています。
 また、昭和22年の祭りに際しては芝居の脚本執筆も買って出ました。9月20日の日記には「御祭りの芝居の相談会 戸村さんに夜集る 其脚本を引きうける」と見えます。翌日の午後「きのふの脚本一時間ばかりで書きなぐる」としましたが、翌々日の記事によると結局は「脚本さい用せず」ということになったようです。しかし、同日の日記には「この夜より佐渡御けさのけいこ始まる」とあり、「我も毎晩さど御けさのけいこをなす」と記されています。祭礼当日の出し物と思しい「佐渡おけさ」の稽古に余念がなかったようです。なお、29日の祭り当日の日記は佐渡おけさのことには触れないものの、磯屋旅館での宴会で女装して喜劇を演じたことを記しています。

別れを前に

 戦後もしばらくは塩原に滞在していた巴水ですが、いよいよ東京への引き揚げを口にし始めたのか、旧交を温めてきた塩原の人々は彼を誘い、平家落人伝承の残る湯西川温泉へ送別の旅行に出掛けました。この旅行中のエピソードに関しては泉漾太郎「はんぱの文ちゃん」(『めしもり曼荼羅』収載)に詳細で、つとに知られています。昭和22年7月12日の日記は、旅行の実施時期や旅館への到着時刻などに相違する部分はあるものの、この湯西川温泉への送別旅行のことを記したものです。巴水を含む参加者7名は朝4時半に塩原福渡を出発。湯西川温泉入口まではトラックに揺られながら、以降は曇り日のなか4里の山道を歩き、午後2時半に伴久旅館に到着したことを記しています。
 山道の途中で、あるいは旅館の3階より巴水が写生を試みたことを伝える記録も残りますが(楢崎宗重「川瀬巴水 版画とその生涯」渡邊規編『川瀬巴水木版画集』〔毎日新聞社、1979年〕や泉漾太郎「はんぱの文ちゃん」)、当館所蔵の写生帖からこの点を確認することはできず、 詳細は不明といえます。翌13日は伴久旅館を出発し、川治温泉のホテルに投宿した巴水らは、14日福渡へと帰って来ました。この日の日記には「これもまた何かのえにし 湯西川 思わぬ人と泊りかさねて」と綴られており、巴水にとって印象深い旅行であっ たことをうかがわせる一文が添えられています。
 別れの前日、役場で転入手続きを済ませた巴水は塩原町長から「警さつのマークの画料」を受け取っています。昭和25年作成の塩原小学校の校章図案とともに、長く世話になった塩原へのお礼の意味も込めて作成された図案だったのかもしれません。


日記 昭和22年7月12日


伴久旅館玄関口 昭和30年頃 本家伴久 提供

塩原との縁

 東京に帰還した巴水が住まいに選んだのは、苦心して建てた馬込の洋館づくりの家ではなく、洗足池のそば近く洗足流れに面する上池上町1127番(現大田区上池台二丁目33番付近)に建つ渡邊庄三郎の家作でした。すでに戦前、洗足池を画題とした作品を制作したり(昭和3年作「千束池」『東京二十景』)、庄三郎と池畔に灯篭流しを見に行ったりするなど(写生帖第40号 昭和8年5月14日)、巴水は度々池畔を訪れています。そういった地の利のある場所であってみれば、東京での再出発にそれ程の支障はなかったものと想像されます。
 巴水が東京に戻り、しばらく経った後の昭和24年2月5日に福渡では大火事が発生し、多くの温泉旅館が灰塵に帰しました。世に「福渡大火」と呼ばれるものです。この火事を当日のニュースで知った巴水は方々から見舞金を預かり、早くも2月10日には火事見舞いのため、塩原を訪れています。塩原との縁は東京帰還後も続いていくのです。

塩原を題材とした戦後の作品

 紅葉時期の猿岩を描いた「塩原 猿岩」は昭和24年に出版された作品ですが、作品の基となる写生は同17年10月に行われたと推測されます。10月 24 日から福島に滞在していた巴水は、28日夜には西那須に赴き、29 日に猿岩の写生を行い、塩原の叶屋へ投宿しました。この日の日記には「夜河内やにて和泉や叶屋の両主人のかんげい会へ行く 牛鍋と湯どウふ 女中がそゝをして 叶屋 湯どふふのあつひやつをひざの上へぶちまけられる 天狗岩下の何とか云ふうちへはしご こゝでは鳥鍋をたべる」とあり、久し振りの塩原来訪であったためか、旧友から手厚い歓迎を受けた様子が綴られています。
 昭和24年10月5日から7日にかけて、巴水は「うら磐梯 青沼之朝」「塩原 布瀧」とともに本作品の線描きを行いました。この点に関して日記は「十七年の旧作 版下を店でなくしてそのままになりしを改めてせんがきをなす」と記しています。これによると、これら3作品の線描きは戦中の混乱によって失われてしまったようです。そのため、この年に改めて線描きをやり直し、出版へと至りました。

 「湯宿の朝(塩原 新湯)」は昭和19年10月18日に塩原新湯の旅館・下藤屋の 3 階客室から描いた窓越しの風景を同21年に出版したものです。新湯温泉は巴水が毎度滞在していた福渡からも遠くない距離に位置しており、同地に取材した作品をいくつか制作しています(大正8〔1919〕年「塩原 あら湯路」、大正9年秋「しほ原 あら湯の秋」『旅みやげ 第一集』)。少し足を延ばせば通える居心地の良いお気に入りの場所。新湯温泉は巴水にとってそんな場所であったのかもしれません。


川瀬巴水「湯宿の朝(塩原 新湯)」昭和21年作


写生帖第66号 新湯 下藤屋三階(昭和19年10月18日)


下藤屋旅館 戦後 やまの宿 下藤屋 提供


写生帖第59号 あら湯下藤屋にて(昭和20年6月18日)

 畑下は塩原温泉郷の温泉街の一つで、温泉郷を流れる箒川が南北に大きく蛇行して半島状となった河畔に所在します。明治時代には名士の別荘も数多くあったといい、実業家の奥蘭田もこの地に別荘を構えました。「塩原 畑下」は昭和21年1月14日の写生に基づき制作された唯一冬の塩原を描いた作品です。描かれた風景はほぼ同じアングルの絵葉書があり、畑下温泉の町並みとしてはよく知られたものでした。温泉街はすっかり鉄筋コンクリートに変わってしまいましたが、町並みは現在も巴水が写生した頃の面影を色濃く残しています。


川瀬巴水「塩原 畑下」昭和21年作


写生帖第66号(昭和21年1月14日)


絵葉書(塩原名所)畑下り之全景 明治40~大正7年頃


畑下 令和2年撮影

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