第14回 川瀬巴水 学芸員コラム

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更新日:2022年5月31日

戦後の作品と交流(3)

 版画絵師・川瀬巴水の生涯と画業についてのコラムをお届けします。第14回は戦後の活動にスポットをあて、旅先の風景を主題とした作品と多岐にわたる交流の一端を紹介します。

昭和23年の長期写生旅行

 昭和23(1948)年3月31日、巴水は疎開先である栃木県の塩原より帰京し、大田区上池上町の渡邊庄三郎の家作に入ります。このすぐ後に出発した九州・中国・四国・関西の写生旅行からは、何点かの作品が制作されました。昭和23年6月1日の日記には「店へ行き こん度の旅行の作品を西日本風景選集となす事にきめる」とあり、シリーズ作品(連作)としての制作が予定されていたことが判明します。疎開中、東京へ上京したり、茨城や東北方面への小旅行を試みたりはしていましたが、久しぶりの遠方への旅行で創作意欲も高まり、収穫の多い写生旅行であったといえるでしょう。ここでは日記を頼りとして旅程とともに先々でのエピソードをかいつまんで紹介します。
 出発は4月18日。大阪行の列車に乗り込んだ巴水は19日大阪-兵庫姫路-網干と移動し、その日は知人宅に宿泊。20日は快速列車に乗車、21日に門司から九州へと渡り、熊本県阿蘇市の赤水にたどり着きます。そこから、さらにホテルのバスで移動し、阿蘇観光ホテルに到着、巴水は蘇峰館に宿泊しました。22日は豊後荻に足を延ばして知人の親類を訪ねています。この日の日記には「ひる飯ちそうふになる 御酒出る 外国の鉛筆をもらひ 干柿をくれる」とあり、至れり尽くせりの歓待を受けた巴水は持参した版画を進呈しました。恩義を重んじる巴水らしいエピソードのひとつといえます。23日からは熊本(阿蘇外輪山・熊本城)-福岡(柳川)―佐賀(佐賀城・呼子・多布施など)と移動し、各所を写生しました。29日は呼子に宿泊することになりますが、どこの宿屋も満室。ようやく泊まることができた宿でも夕飯の用意はなかったようで、前日知人からもらったゆで卵で夕飯を済ませたと日記に綴りました。さぞかしひもじい思いをしたことであろうと想像されます。


川瀬巴水「阿蘇之夕(外輪)」昭和23年作


写生帖第71号 筑後柳河の朝(昭和23年4月27日)


川瀬巴水「肥前 呼子之朝」昭和23年作


 写生帖第71号 佐賀多布施開運橋(昭和23年5月1日)

 5月2日には九州の地を離れ、山口下関へ移動。市内侍町や御船手海岸を写生しながら過ごし、5日に広島へと向かいます。ここでも厳島神社回廊・竹原的場などを写生し、9日に愛媛今治-松島と移動しました。広島では街中をあちらこちらと見物して回っており、何気ない日常風景のなかに写生場所を求めた巴水の姿が浮かび上がるかのようです。7日の日記には「安浦 風早 三津 吉名とあるき(中略)弁当は三津 ラムネをのむ」と記されており、かなりの距離をおそらくは徒歩で移動しています。しかし、写生したことが確認できるのは安浦においてのみであり、巴水の好む風景にはなかなか出会えなかったようです。

 愛媛では10日に松山城戸無門や11日に高浜梅津寺の梅・四十島を写生、12日には道後に向かい、石手寺を写生しつつ、今川焼を食べたり、温泉に入ったりして旅を満喫したようです。13日は香川へと入り、14日の昼前に豊浜を写生して移動。善通寺駅前で旧知の仲であった高城純子夫妻の出迎えを受けています。高城夫妻とは15日に金刀比羅宮を参拝し、本宮前から写生を試みました。16日は香川丸亀から船にて岡山下津井へ移動。この日の日記によると、「船中高城さんでこしらへて下さつた弁当(をかずサワラ)をたべ」ています。この前後にもサワラやサワラの白子入りの汁物が美味であったと記していますから(15・17日)、巴水はサワラが好物だったのかもしれません。岡山では弟子の村川源之助による案内で市内観光を楽しみつつ、版画の販売も行いました。売上金は旅の資金にも充当されたと推測されます。もちろん写生も忘れてはいません。19日に笠岡応神山、20日に笠岡の海岸でその街並みを写生し、同日には神島にも渡っています。21日は兵庫姫路に移り、22日に姫路城(白鷺城)を写生。23日は室津へと向かい写生を試みたようですが、「室津全部見物せしが 写生せる処なし」と日記にはあります。


川瀬巴水「鯉のぼり(香川県豊浜)」昭和23年作


写生帖第71号 姫路城(昭和23年5月22日)


川瀬巴水「伊予 梅津寺之浜」昭和25年作


川瀬巴水「松山城名月」昭和28年12月作

 24日は京都へ移動。25日に三千院や平安神宮、26日に五条橋付近を写生し、同日愛知一宮へと移ります。27・28日と知人等に版画の販売を続け、27日には津島神社で写生も行いました。写生帖第71号には彩色を施された津島神社の写生画が収められていますが、写生を行った日付は「五月廿八日」です。日記と写生帖のいずれの記載が正しいのかを判じることはできません。29日、一宮で列車に乗り込んだ巴水は途中下車することなく家路へと向かいました。


川瀬巴水「平安神宮の雪(京都)」昭和23年作


写生帖第71号 津島神社(5月28日)

 巴水にとって旅は、作品を生み出す原点となるものでしたが、日記からは純粋にその土地での人々との交流やその風土を楽しむ姿も垣間見ることができるのです。なお、この写生旅行の出発日を遡ること数日前の日記には「店へ行き――いよいよ九州行十六日ころときめる」(4月10日)とあります。文字通りとすれば、旅立ち前の巴水が脳裏に浮かべた旅の目的地は九州のみであったのかもしれません。巴水は成り行き任せの旅を好みました。しかし、遠方を転々と周遊する1ヵ月以上の長期写生旅行はこれが最後となります。 

高城純子氏との交流

 昭和23年の旅の途中には、先にも述べましたが、香川に移住していた高城家を訪ね、「手まり」『子供十二題』のモデルとなった高城純子氏(第5回「川瀬巴水 学芸員コラム」参照)と再会しました。5 月14 日に高城家へ宿を取った巴水は、翌 15 日の日記に「純子さん夫婦と琴平宮へ行く 御山でべんとふをつかふ 朝食にも御酒 ひるも御酒もつて来てくれのむ 夜食も御酒 何年ぶりかでサワラが出とてもむまかつたり」と書き留めました。参詣と共に地元の食材と酒を堪能して上機嫌な様子が伝わってきます。同日の日付が記載されている写生帖第71号には、金刀比羅宮の本宮前に広がる展望台の欄干から讃岐平野を望む男女の姿が描かれています。この写生をもとにした作品には子供連れの男女の他に二人の遍路の姿が描き加えられていることが確認できます。日記を先へと読み進めると、「金比羅さんの原画をかく(東京引越さわぎ以来始めて仕事をやり出した)」(昭和 23 年 6 月 8 日)とあり、東京に戻ってから初めての仕事が金刀比羅宮を写生した作品の制作であったことがわかります。そして、昭和 28 年 1 月 21 日、巴水は純子氏に完成した「さぬき 金比羅宮」を贈っています。


川瀬巴水「さぬき 金比羅宮」昭和23年作


写生帖第71号 金比羅宮(昭和23年5月15日)

 これ以降も純子氏との交流は続きました。昭和29年2月4日、巴水は日本橋に所在する山本海苔店で購入した海苔を純子氏に送り、同月20日に純子氏から礼状が届いたことを日記に記しています。さらには、同年 5 月15 日に純子氏から香川県の名産である鯛の浜焼きが届き、同月18日に「七十一回の誕生日の祝宴 多田女を入れた五人で 高城さんから送られた 鯛のはまやきで……」と綴りました。その二日後の20日には浜焼きの礼状を送るなど、義理堅い巴水の人となりを物語るエピソードといえます。

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